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 コラム 

2014/8/4 「嫌うということ」
 

 この間テレビ番組「林先生の痛快 生きざま大辞典」で中島義道という哲学者が取り上げられていました。私はこの方を存じ上げなかったのですが、とても興味深く拝見しました。早速「ひとを「嫌う」ということ」を読んでみました。番組の中で紹介される中島義道はちょっと偏屈者で近寄りがたいイメージでしたが、本を読んでみると繊細な語り口で分かりやすく書かれていて、思っていたイメージとは違いました。もっと他の著書も読んでみようと思っています。

 さて、その番組の中で今の世の中は「嫌いということは良くないことだとする風潮がある」と言っていました。例えば食べ物の好き嫌いもないことがいいことだとする流れだし、人のことを嫌いだとあまり言ってはいけない雰囲気ですよね?みんな仲良く、順位をつけないで、平等にという流れです。

 でも、どこかでみんなそのことに違和感を感じているのではないでしょうか?テレビでは辛口コメントを言うタレントが人気者になるというのも、実はみんな心の中では「嫌いなことは嫌い」と言いたいと思っているからではないでしょうか?結局人は全人類を好きになることは出来ないのです。極論かもしれませんが、そのことを認めない限り戦争はなくならないと私は思います。

 メディアではある人が何か間違った発言や行為をしたら、まるで魔女裁判のようにつるし上げ、連日重箱の隅をつつくように糾弾しています。みんな仲良くという神話を守る為に「生贄」を捧げているみたいに。集団催眠術のような状態に近いのではないかと、ゾっとすることがあります。私も気がつけばその人のことを何も知らないのに、メディアを信じ、一緒になって攻撃するようなことをテレビに向かってつぶやいていたりします。

 もちろん、間違った発言や行為は良くないけれど、だから、人格を全否定してもよいということには繋がらない。だって、糾弾している私たちだって、間違った行為や発言をしたことのない人なんていないはずだし、相手を裁けるほど偉いのか?と思うのです。けれど、私たちは社会的に悪だと認められれば攻撃してもよいという空気があるように思う。自分に矛先が向かっていないとすれば、安心し、相手に容赦なく石を投げつける。それは常に「人から好かれなければならない、人を嫌ってはならない」というルールに縛られていることからくる反動のように思えてならないのです。

 嫌いになってはいけないという暗黙のルールがあるから、もし嫌いになってしまうなら、それは自分の問題ではなく、相手が悪いのだとする思考が働きます。嫌いになってはいけないのに、好きになれないのだから、そういう人を排除したいという心理になるのは当たり前なのです。だって、その人を嫌う自分に罪悪感を感じてしまうから。好きになれない自分が駄目なのだと認めたくないから、相手がいなくなってくれればいいのにと思ってしまうのです。

 誰かを好きだという思いがあるということは、相反する嫌いという感情があって当たり前なのです。それを認めないから、自分を正当化するために、自分だけがその人を嫌いなのではなく、みんなが嫌いであれば安心するし、共犯者をつくろうとしてしまう。自分の感情として「嫌い」なだけで、他の人がどう思おうと関係ないと思えば、徒党を組んだりする必要はないし、嫌いな人とも仕事は仕事だと割り切って付き合えばいいのだけれど、人を嫌うことは悪だという思い込みがそうはさせない。

 それでも人は皆、自分が人を嫌うことがあるのはある程度認めている。それは相手が悪いからであって、自分が理不尽に嫌っているなんて大抵の場合気づいていないけれど。でも、自分が嫌われるなんて認めたくない。だから好かれるように無理をしたり、相手の顔色を伺って、常に緊張状態。そんなんじゃ、うつにもなります、と思います。嫌われるのは自分が悪いからだ、その原因を追究し、直さなければ私は価値のない人間なのだ・・・と真面目な人は思ってしまいます。でも、人が人を嫌うとき原因なんてなかったりします。ただ「顔が嫌い」とか「話し方がなんか嫌」とか「自分より可愛いから嫌い」「自分より頭がいいから」とか結構理不尽な理由で嫌うのです。

 だから無理に好きになろうとか、嫌われないようにしなくてもいいのです。嫌なことは嫌だな~と認め、なぜなのだろう?と客観的に考えてみましょう。そしたら、自分の思い通りにならないから嫌だとか、自分を認めてくれないから嫌いだとか、えらそうだから嫌いとか、自分が惨めに感じるから嫌いとか突き詰めてみると多くの場合、自分本位に考えていることが原因だったりすることに気づきます。それを失くそうとする必要はないのです。ただ、認める。ああ、私はそう思っていたから、嫌だったんだな・・・それでいいのです。そのことを認めない前よりは嫌いという感情から逃げる必要がなくなると思います。

 自分が嫌われるということも受け入れられるようになると生きていくのが楽になりますよね。無理して好かれなくていいのだから。どんなに完璧に、人に好かれるマニュアル通りに行動したとしても、自分を嫌う人は絶対にいるのです。マザーテレサだって、ヘレンケラーだって、聖人と言われた人にも嫌う人はいたはずだし、彼らにも嫌いな人がいたはずです。

 「ひとを「嫌う」ということ」の中に中島義道が定義した嫌いの8つの分類を紹介します。

 一 相手が自分の期待に応えてくれないこと
 二 相手が現在あるいは将来自分に危害(損失)を加える恐れがあること
 三 相手に対する嫉妬
 四 相手に対する軽蔑
 五 相手が自分を「軽蔑している」という感じがすること
 六 相手が自分を「嫌っている」という感じがすること
 七 相手に対する絶対的無関心
 八 相手に対する生理的・観念的な拒絶反応


 今まで私が嫌いだと思っていた人のことを思い出して、なぜそう思ったのか分析してみると、やはり、最初は相手が自分の期待に応えてくれないというところから端を発していると思います。だんだんと二から三、三から四・・・とすすんでいき、最終的には八の拒絶反応へと移行していました。そして、この一番最初の「期待」こそ、自分の勝手な思い込みによるものが大きく、勝手に期待して勝手に幻滅したりしていたのだと思います。そして、そんな理不尽な自分を認めたくないから、相手を悪者にして自分を正当化して納得していたように思います。

 これからは、好きだという感情と同じぐらい、嫌いという感情を大切にしよう。そう思いました。「嫌い」の感情には「好き」と同じぐらいパワーがあります。その方向を上手く誘導すれば自分を成長させることが出来るし、嫌いという感情に振り回されずにすみます。客観的に自分の感情を分析することで、見えてくるものがたくさんあります。嫌いな人を嫌いなままで上手く付き合う方法も見つかるはずです。

 相手を攻撃したり無視したりせずに、自分や相手を傷つけたりせずに、お互いさらりと嫌い合うことを認めたつきあいというのも、なんか楽しそうな気がしてきます。「嫌い」で結構。という関係もまたいいのではないか・・・と番組を見て、本を読んで感じました。

 世の中の幻想に惑わされず、ちゃんと自分の感情と向き合って生きていきたいな、そう思いました。合掌