Yoga & Relaxation Salon in Otaru ~ Candrika ~
















 コラム 

2016/4/24 「アドラー心理学 その2」
 
 前回に続き、アドラー心理学についてです。

 前回は「目的論」や「ライフスタイル」「承認欲求」について簡単ではありますが、お話いたしました。今回はまず「課題の分離」についてです。人間関係のトラブルの多くは"課題の分離が出来ていない"ことにあるとアドラーはいいます。

 例えばよくある悩みに「子供が勉強しない」ということがありますよね?それって、誰の課題でしょう?とアドラーは言うのです。勉強しないのは子供の課題であって、母親の課題ではないですよね。母親の課題とするなら、勉強しない子供を心配してついつい口出ししてしまうということでしょう。

 じゃ、口出ししちゃいけないの?なんか冷たいな・・・と思ってしまいますが、だからといって見放せとか突き放せということではありません。自分の考えを押し付けがちになってしまうところをぐっと抑えて見守ることが大切だということなのです。共通の課題もありますし、何でも相手の問題だからと切り離すことではありません。分けて考えることで相手の気持を土足で踏みにじることもなくなり、お互いを尊重し信頼できるようになると思うのです。

 私も今まで多くのことで相談されてもいないのに他人の課題に口出ししていたと思います。アドバイスしているつもりでしたが、大抵は自分の価値観の押し付けに過ぎなかったと思います。

 このことを知った今でも、ついつい人の課題に手出し口出ししてしまいそうになります。

 あえて提案はするけれど、その通りにしないからと言って相手を否定したり、軽蔑したり、見下したりしないように心がけてはいますが、なかなか染み付いたパターンはすぐには変えられないものですねー。でも、相手が自分の思うように行動しないときにイライラしたら「あ、上から目線になっているんだな」と気付くようになりました。

 アドラーの考えは縦の人間関係ではなく、横の人間関係が理想だということなのです。もちろん、いろんな場面で縦の人間関係も大切なことがありますが、おおよその人間関係は横であると考えておいたほうがトラブルが少ない気がします。課題の分離が出来ないのも、相手を自分より下に見ている場合に多く見受けられると思います。自分より目上の人の課題には恐れ多くて口出ししないですよね。せいぜい陰口で終わります。

 私もそうですが、すぐに自分の位置を考えてしまいませんか?自分はあの人には負ける、あの人よりは上だとか、無意識に考えてしまうようになっていませんか?

 私はヨガを始めてから、そのことに気付かされました。損得勘定で考えないように・・・と思っていながらも、人間関係の相関図の中でそうやって無意識に順位づけをしていたような気がします。下だと思っていた人が自分よりも高学歴だと知ったとき、急にその人に負けたような気がしたり、両親や夫が大手企業や社長だとか知った途端、違う世界に住んでいると線引きしてしまって関わらないようになったりとか。

 本当、コンプレックスの塊だなぁと自分のことが嫌になります。でも、コンプレックスがあるから努力したりすることもあり、何でもそうですか使いようなのです。

 ではどのようにアドラーの教えを実生活に活かせばいいのでしょう?アドラーは共同体感覚を持つことが大切だと言っています。共同体感覚とは他者を仲間と見なし、家族や会社、地域や社会、国、あるいは世界など、共同体に居場所があると思うこと。

 そのためには自己受容、他者信頼、他者貢献を実感しながら生きていくことが大切なんだそう。

 ここまで見ていくと、道徳の時間に習ったことと同じなような気がしますよね。でも、それってキレイごとで世の中はそんなに上手く行くわけないのだから、自分に利益がないなら真面目に取り組むのは損だという考えがいつの間にか刷り込まれているような気がするんです。情報社会の今の若者が覇気がないとか草食だとか言われるのは世の中に期待していないという感覚が蔓延しているせいなんだと思います。

 私もかつてはそうやって愚痴って成功者を羨んで「そもそも遺伝子が違うんだ」って諦めていた時期がありました。でも、今はそうじゃないと思っています。世の中そんなに捨てたものじゃないし、遺伝子だけでは分からないこともまだまだ多いのだし、仲間がいたら楽しいし、頑張れるし、いくつになっても真剣に取り組むことで成長する喜びを得られるものだと思うのです。

 共同体感覚を得るためにはまず「自己受容」です。自己肯定ではなく、自己受容。出来ない自分、ふがいない自分をありのままに受け入れること。自分に出来ること、出来ないことを見極め、出来ることをして前に進むこと。自分を認めてもらおうとすることと間違いやすいですが、相手が認めようと、蔑もうと関係なく自分自身を受け入れることです。私もまだ出来てない気がしますけれど。

 次に「他者信頼」。対人関係の基礎を条件付の信用ではなく、無条件の信頼で考えること。あくまでも対人関係を良くしたいと思っている人に対してで、そうではない人を無理に信頼することではありません。
場合によっては相手との関係を断ち切ることも必要です。これは・・・無条件で信頼できる人がいますので、クリアかな?

 最後に「他者貢献」。仲間である他者に自己犠牲のない他者貢献をすること。見返りを求めない貢献って、全然出来てません。認めてもらえるように無理してみたり、誉められないとやる気を失ったり。ご馳走様を言わなかった・・・ぐらいで、夫に文句言ったりしてますからね(笑)全然ダメダメです。

 そして、最後に自分と他者を勇気付けることをアドラーは勧めています。

 「勇気づけ」とは困難を自らの力で克服する活力を与えること。

 今まで子供や仕事仲間などに「頑張ったね、すごいね」と誉めることが良いと思ってきた人にとってはそれが駄目だといわれるとショックだと思いますが、そうすると相手は誉められないとがっかりしたり誉められるために頑張ったりしてしまうことがありますよね。誉められるときにしか頑張らなくなってしまったり。何より誉めるという行為は実は自分が上から目線で言っていることなのだということなのです。

 確かに上司に「頑張ったね」なんていわないし、自分より下の立場の人に言うことが多いことです。だから、そうではなく「私は嬉しい」とか「私は助かった」など、自分の感情を伝えるんだそうです。「あなた偉いね」などあなたを主語にするのではなく「私」を主語にすることにすると分かりやすいかもしれません。

 例えば「私は自分に自信がなくて・・・」と言う人に「大丈夫だよ、君なら出来るよ。自信持って頑張って」と言いがちですが「それって、慎重に行動できるってことでしょ」とか相手のマイナス面だと思われる部分に光を当ててあげるのだそう。実際、シャイな人に人前に立てということは無理がある場合もあるし、失敗して傷ついてもう二度と人前に立とうとしない可能性もある。けれど、今のままの自分で十分なんだと勇気付けてあげられたら、本人が本当の意味で今の自分に自信を持って人前に立とうと行動できるかもしれないですよね。たとえ失敗しても本人も納得できるはず。無理して頑張って誰かの期待する自分になるのではなく、「ありのままの」自分でいられるかもしれない。

 頭でわかっていても、行動が伴わない・・・。そう思ってしまいますよね。私もよし、いまから人の言うことに耳を傾けるぞ!でしゃばらないぞって、自分が人の話をあまり聞こうとせず、自分のことばかり話そうとする性格を直そうとしていた時期がありました。けれど・・・ついつい調子に乗り(笑)結局いつも自己嫌悪。

 でも、アドラーの教えを学び、少しだけ見方を変えてみました。場を盛り上げようとすることが出来るのはいいことだし、自分の話したいことがあるって、積極的でいいことだと思うようになりました。それに、自分が話してしまうときって気の置けない相手の時だけだし、初対面の人や苦手な人には自分の話ばかりしないということに気付いたのです。

 人はそれぞれ相手によってキャラを自然に使い分けているものです。親の前では娘のキャラだったり、義理の親の前では嫁のキャラだったり、何でも話せる親友とただの知人とではキャラも違うし話題も違いますよね。それが普通のことなのだから、自分はこういう性格という風にひとくくりに決め付けずに、対人関係の中でどの場面での傾向なのか見極めることでおのずと対応は変わってくると思います。

 アドラーの心理学は机上で終わらない、実践できるものだと思います。ただの知識で終わらせず、実生活に活かして成長できたらいいなぁって思っています。人生いつも上手くいくとは限りません。私も上手くいくときと自分が全然成長していないし、退行しているのではないかと落ち込むこともあります。それは必要なことだと思うのです。ヘレン・ケラーもこう言っています。

 「もしも この世が喜びばかりなら 人は決して勇気や忍耐を学ばないでしょう

 三重苦のヘレンが苦しみや悲しみや辛さの中から勇気や忍耐を学び、充実した人生を送ったように、私も自分の課題から逃げずに、これからもアドラーの教えについて、学んでみたいと思っています。  合掌