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 コラム 

2008/8/6 「夜と霧」
 友人がブログで勧めていた本「夜と霧」を読みました。「アンネの日記」と並ぶ有名な本みたいですが、それまで全然知らず・・・。もちろん、この世の中読んだことのない本だらけですが・・・、良い作品は少しでも多く読んで行きたいと思います。

 心理学者である著者が、強制収容所の体験を冷静な目線で綴っているのですが、重たい内容にも関わらず、何故か爽やかな印象さえ感じる文体で、私自身も冷静に読み進めることが出来ました。

 強制収容所のことは、今までテレビや本などから得た知識でなんとなくわかったつもりでいましたが、それよりも、もっと切実に人間の恐ろしさとそして素晴らしさを感じました。何故人が人をここまで冷徹に扱うことが出来るのか、そしてなんと命とは尊いものなのか・・・色々と考えされられました。

 私がこの時代に生きていて、そしてユダヤ人だったら、どうなっていただろうか・・・。わたしは自分を信じることが出来るだろうか?当時の人々の精神的、肉体的な苦痛は私の想像力では足りないとは思いますが、希望を失わずに自分を失わずに生きて生き抜くことが出来るだろうか・・・。もしドイツ側だったとしたら、私はユダヤ人だというだけで人を人とも思わない扱いをする人間にまで堕落してしまうのだろうか・・・
正直わかりません。
 
 収容所を監視する監視兵の中にも、被収容者を人間として扱う人もいたという事実、被収容者の中から被収容者を監視する側にまわったカポーという人々が監視兵よりも同胞へ酷い仕打ちをしていた事実。極限状態にあってもお互いを思いやる気持ちを持ち続け励まし合った人々がいたこと・・・。

 人間は環境に左右されるものかもしれないが、それは人によって異なる。どんな環境にあっても、周りがどうであっても、自分自身が「どう生きるか」ということを問われているのだ・・・ということを理解している人とそうでない人の差が結局のところ、人間の価値を決めるような気がする。

 世の中が悪い、周囲の人が悪いと不平不満ばかりで、自分を省みず苦しんでいる人は、自分がどう生きるかを試されているのだと気付いて欲しいと思う。それに気付かず、悪いことはすべて人のせいにして自分のことを棚に上げている人は永遠に本当の意味で生きることが出来ないと思う。それこそ無駄死にだ。

 この世になぜ人は生まれて来るのか・・・。それは限られた時間を「どう生きるか」だと思う。「ただ生きる」ことは出来るし、自ら死を選択して生きることを止めることも自由だ。けれど誰でもいつかは死ぬ。そしてそのことが怖いから「死」を遠ざけて知らないフリをしている。死なんて自分には無縁かのように振る舞っている。それならまだマシだ。人の命を自分の欲望のために奪う人間もいるのだから。

 いつかは必ず誰の前にも間違いなく死は訪れる。死から逃げずに、毎日、一瞬をどう生きるかを考えていたら、自分の命を粗末には出来ないし、ましてや人の命を奪おうなんて気も起きないのではないだろうか?

 著書の中で人間はふたつの種族しかないと書いている。まともな人間とまともではない人間だと。なんてシンプルで、なんて深いんだろうと思った。
 人間は無差別殺人する生きものであり、同時に自分の命を差し出してでも他の人の命を救うことが出来る生きものでもあるのだ。

 もし家もお金も職業も奪われ、家族と引き離され名前も奪われ番号をつけられ奴隷として生きなければならない時が来たとしたら、自分らしさを失わず、人を思いやって生きていられるのだろうか?自信などないけれど、そんな時が来ては欲しくないけれど、もし万が一来たとしたら、きっとこの本のことを思い出すだろう・・・。
 
 本の中には偉人達の格言が記載されている。その中のひとつを紹介します。

 「なぜ生きるのかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」 ニーチェ
 
 コラムを読んで興味を持った方はぜひご一読ください。 合掌