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●●● コラム ●●●
2009/9/14 「葛藤」 |
最近、仏教用語に興味を持っています。普段何気なく使っている言葉が、本来はどういう意味を持っていたのか、そのことを知ると、何か気付きが得られるときがあります。
今回は「葛藤」という言葉について調べてみました。
私たちはよく、様々な場面で「葛藤」という言葉を使います。私はつい最近、ヨガの勉強で次の段階に進むかどうか葛藤していました。この葛藤と言う言葉は、何か、対立する感情の間で揺れ動く時に使われますよね。私の場合で言えば、「続けるか」「やめるか」の対立する感情の中で揺れ動きました。
「葛藤」とは、読んで時の如く「かずら」と「ふじ」。ツル草です。
仏教では、ツル草が樹にまとわりつき、ついには樹を枯死させてしまうように、人が愛欲にとらわれると、自滅してしまうと教え、愛欲煩悩を「葛藤」に例えています。
禅では、文字・言句のみにとらわれることに例え、このように絡み合っているところを、一挙に断ち切る一句を「葛藤断句」というそうです。
何かに葛藤しているときは苦しいですよね。まさにツル草にぐるぐる絡まれて、息苦しくなっている状態です。私は、結局「どちらも選ばない」ということに決めました。対立していた感情ではなく、どちらでもない「保留」ということにしたのです。次に進みたい!と、強く思うまで、このまま独学で勉強していこうと。まあ、いったん「やめた」ことになるとは思いますが・・・
決めた途端、すごくスッキリしました。ツル草が断ち切られた感じで、身体も心もスーッとしたんです。葛藤断句ですね。・・・すぐに別のことが私の周りを巻きはじめましたが 笑
向上心を持って、葛藤する時、私たちはそれは良いことだと思っています。私もつい最近までそう思っていました。この、葛藤という文字の意味を直視するまでは。
向上心を持っていたとしても、その背後に「利己的」な思いがあるから葛藤してしまうのです。利己的でなければ、葛藤なんてしないと思うのです。答えはすぐに出せるはずなのに、自分ではどうしたいかわかっているのに、決められないというのは、その背後に損得勘定が潜んでいるからではないでしょうか。
葛藤しているとき、「この悩みは利己的ではないのか?」と考えてみると、解決の糸口が見えると思います。
私は勉強を続けるかどうか悩んでいたときは、それが向上心を持っていることだから、いいことなのだと、そう思っていました。だからずっと、やめようと一度決めても「やっぱり続けようかな」とおもったり、続けようと思ってもやめようと思ったりして、どっちつかずの状態がしばらく続きました。その背後にあったのは自分が知識を必要としてるというより、人よりも知識を多く得たい、とか人から遅れをとってしまうのではないか、という利己的な思いがあったことに気付きました。
自分が人からどう見られるか・・・ということに囚われた感情が潜んでいたんですね。それもある意味、社会で生きていくには必要なんだと思いますが、でもその思いは自分を縛り付け、結局自分を苦しめることになるんです。だって、全ての人から良く思われることなんて、絶対にあり得ないですよね。その感情があると、人の意見に振り回され、惑わされてしまうだけなんです。
人からどう思われてもいい・・・ということではなくて、そう思う自分がいるということを認めて、そして直視することで、その感情が隠していた本心が見えてくるんです。私の場合は「今は保留」でした。続けるか、やめるかと悩んでいたのに、別の答えがあることに気付いたのです。
自分の本当の心を覆い隠している「欲」に気付き、それを手放すことが大切です。なかなか難しいですけど。でも、自分が今「執着というツタ」にぐるぐる巻きにされていると気付けば、そのツタも少し緩むのだと思います。そしてどういう執着なのか気付けば、そのツタはいなくなります。
日々私たちが葛藤していることの多くは、本当は答えが出ているんです。それを見えなくしているのは自分自身の心なのです。葛藤することで、そのことに気付くことが出来るのですから、やっぱり葛藤も必要です。葛藤しない人間なんていないんだと思います。
「あ、葛藤している」・・・と思ったら、チャンスなんです。葛藤している感情をちょっと遠くから観て、そして楽しんでみましょう。意外と、答えは別のところにあるかもしれません。合掌
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