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 コラム 

2015/4/20 「仏教は心の病院だ」
 
 先日、ブログのほうでも紹介したのですが、100分de名著という番組で「ブッダ最後のことば」が特集されており、その中でゲスト講師の佐々木閑先生がおっしゃった「私は仏教は心の病院だと思っている」という言葉に今までのモヤモヤがぱーっと晴れた気持ちがしたのでコラムでも少しまとめてみたいと思います。

 佐々木教授がおっしゃる仏教とは今、日本に広まっている「大乗仏教」ではなく、いわゆるブッダの教えである原始仏教小乗仏教」のこと。私自身、ヨガに興味を持ち、色々と調べているうちに仏教に感銘を受けましたが、それは原始仏教であって、今の仏教ではありませんでした。

 ブッダは私たちと同じ人間です。自分を神の生まれ変わりだとか、神の子供だとか、そんなことを言ったことはなかったはずです。仏教を信じれば病にならず、お金に苦労せず、幸せな人生を送ることが出来る・・・とも言ってなかった。ブッダ自身は書物を残してはおらず(まだ文字文化がなかったらしい)、お弟子さんたちがこのまま仏教を衰退させてはならないと、ブッダの死後、教えてもらったことをまとめたのが経典なのです。

 ブッダは個人個人にわかるように同じ教えであっても表現を変えていたそうですし、伝言ゲームをしてもわかるように、ブッダが言った言葉通りに伝わっていないことのほうが多いと思います。だから、経典には矛盾していることがたくさんあるので、自分はこれはこう思う、いや違う、自分たちが正しい、いや私たちが正しい・・・と解釈が違うグループができ、宗派が分かれたみたいです。

 ブッダはすべては自分自身の物事の受け止め方、考え方の問題だと説いていたのだし、神の存在や死後の世界に関しては「無言」で返したといわれています。このことだけでも否定はしていなかったから、あるということだ・・・と思う人がいたり、いや、無言ということは否定しているのだ・・・と思う人がいたことは想像できますよね。

 佐々木教授の「日々是修行」という本の中で述べられている言葉を紹介します。

 「この世には、超越的な力を持つ絶対者など存在しない。すべては、原因と結果の間に成り立つ法則性で動いている。私たち自身の肉体も心も、その法則性に沿って存在しているのだ。だから、生きる苦しみを消し去るためには、外の絶対者にお願いしても意味がない。世の法則性を正しく知ったうえで、それを利用したかたちで自分の心を鍛錬していく、それが苦しみをなくす唯一の道だ

 私もずっと神という存在はいなくて、何かシステムみたいな法則でこの世は動いていると思っています。その法則には善も悪も損も得もない。それらは人間側の価値観で決めているだけで善も悪もあくまでも人の主観に過ぎず、それは判断する人の基準で変わってしまうものだから。

 ブッダは人はみな平等だと説いた。ブッダはカースト制度に異論を唱え、「人は産まれもった性別や階級などによって価値は決まらない、その人の心根や行為によって決まる」と説いた。私はずっと「幸せ」というものが平等なのだと勘違いしていた。だから、本を読んで現実と照らしあわせ、違和感を感じることがあった。それは何なのだろう?とずっと思っていたのです。

 ブッダは「苦しみは平等」だと説いたのだと佐々木教授が番組で発言され、今までの違和感がパーっと晴れました。

 誰もがこの世に産まれたときにいつか死ぬという苦しみを背負っている。お金持ちだって、容姿端麗の性格の良い人だって、苦手なもの、嫌いな人がいるし、今もっているものを失う苦しみは誰しもが持っている。愛する人だったり、自分の美しさだったり、地位や名誉だったり・・・。だから、みんな平等に苦しむんだよ・・・ということだったのですね。

 何か苦しくなって生きるのが辛くなったとき、いつでも仏教は無条件に受け入れてくれるのだ。辛くなったとき、仏教の教えの中に自分の苦しみにあった教えがある。まるで、病院にいって症状にあった処方箋を出してくれるのと似ている。そして病気にならないようにするために身体を鍛えるのと同じで予防策として仏教を学び心を鍛えることもできるのだ。

 心の病院、なんていい表現なんだろう!佐々木教授のことが一気に好きになってしまった 笑。

 苦しみがあることを受け入れられず、自分だけは違うはず、違って欲しい、変わっていくものを変わらないで欲しいと願うところに「苦しみ」が生まれてくるのです。どんなに恵まれた容姿であっても、いつかは老化していくのだし、お金持ちの家に生まれたとしても、明日貨幣価値が覆されるような出来事があってお金の価値がなくなるかもしれない。愛する人に先立たれてしまうかもしれない。地位や名誉を失うこともある。自分もいつかは死んでしまう・・・

 だからって先々のことを嘆いて不安になって動けなくなってしまわないように、ブッダの教えがある。

 「日々是修行」の中で佐々木教授はこうおっしゃっています。「お年寄りはなぜ偉いのか。それは、生きる辛さを知っているから、そしてその辛さを抱えて生きる中で、智慧と慈悲の意味を本当に理解しているからだ。年をとることそのものが修行なのである

 昔はお年寄りを敬い、意見を尊重していたはず。いつの間にか老いることが悪いことのように、どうすれば美しく生きられるかという外見にばかり焦点をあてているような気がする。企業の戦略にのり、若々しくいるためにお金を消費させられている。そしてそのお金のために働いている。本当にそれでいいのだろうか?(という私も少しでも若く見られたいと願っているけれど 笑)

 私たちは外見だけでなく、心豊かに生きるためにどうすればいいのかを考えていく必要があると思うのです。年をとることは決して老いていくだけではなく、周りの人に対する深い優しさが備わってくるものだと思うから。若い頃とんがっていた人が年をとって丸くなった・・・というのはよく聞く話ですよね。きっとそういう人は苦しみの本質がわかって、優しくなれたのだと思います。反対にわがままになる人もいますけど、そういう人は苦しみを何かのせいにして苦しみから逃げているのだと思います。

 2500年前のブッダの教えなんて・・・と思う方がいるでしょう。けれど、文明がいかに発達したとしても、人の苦しみは今も昔もほぼ変わらないのだ。みんなが豊かになって、便利になったとしても、死や病や老化からは逃げられない。医療が発達しても、寿命をのばすことができるだけ、老化を表面上遅らせることが出来るだけ。江戸時代の平均寿命は50歳だったから、今は倍近く伸びたといっても、決して死や病への恐怖が減ったわけじゃないですよね。

 それよりも、老後の生活への不安というものが増えたような気もします。文明によって生活が便利になったことで、より欲深くなり、もっと、もっと・・・と往生際が悪い人生を送ってしまっている人も多い気がする。文明は決して心を豊かにしてくれるものではなく、あくまでも道具にすぎないのに。

 自分の人生をどう送るかは自分次第なのだと2500年前からブッダは説いていたのです。みなさんも苦しいと感じたときには是非、仏教の本を読んでみてください。  合掌