Yoga & Relaxation Salon in Otaru ~ Candrika ~
















 コラム 

2015/7/24 「広い視野」
 
  7月2日で8周年を無事迎えることができました。これまで、たくさんの方に日々の学びや生活を支えて頂きました。この場を借りて感謝申し上げます。ありがとうございます。サロンも9年目を迎えて、今後も同じように道を歩んでいけるのかどうか考えると不安になることもありますが、出来るだけ長くこの仕事を続けていけるように頑張っていきたいと思っております。

 9年目ともなりますと、様々な出会いと別れを経験します。長年通っていて熱心だった方が去っていくことがあり自分の至らなさに落胆したり、再びヨガに戻ってくださる方がいれば喜んだり、まだまだ人の反応に一喜一憂してしまう私ですが、それでも昔よりはすぐに平穏な精神状態に戻れるようにはなったと思います。

 最初の頃、心の波を立てないようにするということは「動じないようにすること」だと思っていました。ですが、私はすぐに感情の波が立つ性質なので、何かあるごとに心は揺らぎコロコロと変化し、成長していない自分にその都度自己嫌悪を感じて更に落胆していたものです。

 最近では、感情がなくなってしまえば人は人ではなくなるのだから、感情の波があるのは仕方のないことなのだと思えるようになり、聖書や仏教やヨガの経典でいうところの、「心の平安」とは心の波を立てないようにするのではなく、そういった心の波立ちが起こったときにそのまま引きずられることなく、俯瞰で見るようにし、すぐにもとの平安に戻れるということを意味しているのだと思うようになりました。

 感情を抑えたり隠したりせずに、認め、受け入れるしかないのです。それは必ずしも表に出すということではありません。ただありのままの感情を受け入れる。だって好きなものがあるのなら、嫌いだという感情が存在することを認めないわけにはいきません。それなのに、そんな感情を抑え付けようとするからこそ、嫌いという感情を隠し、陰湿なイジメに発展したりするのではないでしょうか?「嫌い」は自然な感情であって悪い感情ではないのです。その「嫌い」という感情を正当化しようとすることが悪なのだと思います。

 気の合う人がいるのだから、気の合わない人がいるのは当たり前。気の合わない人とはある程度距離をとって付き合うべきなのに、みんなと仲良くしなければならないと思いこんでいるから、好きになろうと無理をする。でもどうしても好きになれない。だから相手が悪いに違いないのだ、私は悪くない・・・だって、私は仲良くしてあげようとしているのだから・・・。そうして自分は正しい、相手は間違っている、間違っているほうが悪いのだから、それを直してあげるのは正義だ!・・・と思ってしまうのではないでしょうか。

 ちょっと前にフェイスブックでこんな記事を見ました。さかなくんがテレビで言っていたそうです。

 「魚は広い海の中ならお互い助け合うのに狭い水槽に入れて育てるとイジメが発生するんです、イジメをする人は生きてる世界が狭いんですね」

 ズッキューーーンと打ち抜かれました。私はちょっと前にあるFBの情報を読んで、焦りを感じ嫉妬心を感じて自己嫌悪に陥っていました。自分自身にがっかりしていたところだったので、さかなくんの言葉を見たときに自分が狭い世界の中で物事を判断していたから焦りや嫉妬を感じたのだと気づかされたのです。

 具体的に私が何に対して焦りを感じ、嫉妬したか述べることは避けますが・・・。例えば、ヨガの中でもいろいろな流派があり、パワー系のヨガと静的なヨガは色々な面で相反するので、たまーにですが、お互いの流派を良しとしない発言を聞いたりすることがあります。

 それって、パワー系はパワー系、静的は静的という狭い世界の中を見ているから、そういう考えが生まれるのだと思います。自分のやっているヨガが一番良いと思うのはいいけれど、その価値観を押し付けてはならないと思います。ヨガという大きな視野でみたとき、生徒さんを取り合うという狭い世界観ではなく、地域のヨガの生徒さんが増えるという風に見られたとしたら、パワー系の生徒さんが増えようが、静的なヨガの生徒さんが増えようが気にならないどころか、ヨガの生徒さんが増えたということは悦ばしいことだと思えるのではないでしょうか?

 自分のスタジオの生徒さんが増えることばかりを気にしてしまう・・・もちろん、そう思ってしまうことは否定しません。私もついつい、他のスタジオはどうなんだろう?と不安に思うこともありますし、誰だって自分の生活が一番大切です。ですが、そう思ったときには自分の視野が狭くなっているということに気付けるいい機会なのだと思います。

 どんな角度や視野で物事を見るか・・・自分の今後の考え方や行動がすべて変わってしまうぐらい重要なことなのです。人のことならば冷静に判断できるのになぜ自分のこととなると冷静に判断できなくなるのか。ずっと疑問に思っていましたが、それは自分の主観という狭い視野で物事を見ているからなのですね。

 この世の中の事柄は自分の思い通りになんて進まないですよね。でも頑張れば願いは叶うものだと、どこかで信じているのです。強く念じれば念じるほどに自分の思い通りに事が運ぶと思ってしまう。

 みんな平等に幸せになる権利がある。私もですがどこかでそんな風に思いこんでいる。だから幸せになれないのは誰かにその権利を剥奪されたり、妨害されているからなのだと思ってしまう。願うということはその剥奪されたり妨害されて今受け取ることの出来ない自分の取り分をもらうための儀式なのだとどこかで思っているのです。

 さかなくんの言うように狭い世界で見ているから、限られた幸せを誰かに取られてしまうと焦ったり、自分だけ独り占めにしようとしたりしてしまうんですね。幸せは無限だと思います。どんな不幸な出来事だって考えようによっては幸せなことだと思えるのだから。もちろん、人と比べている間は幸せには限りがあるでしょう。誰かが1位を取れば誰かが1位になれないのだから。

 もう私は願えば望みはかなうという神話から卒業したいなって思います。

 自分が好きになれないあの人、自分を認めてくれないあの人がいるから、世の中は自分の思い通りにならないのだと認識させ、気づかせてくれ、自分が傲慢になっていることを教えてくれている。願いが叶わないからこそ、幸せなのかも・・・。こうなりたい、こうありたいと希望を持って生きるからこそ、簡単に叶わないからこそ頑張れるし、成長できると思うのです。

 私は猫が好きで飼っていますが、彼らは自分たちの好きなときに傍に寄ってきて、甘えてきます。決して思い通りになってはくれません。でも愛おしいのです。大切にしようと思うのです。たまに言うことを聞いてくれると凄く凄く嬉しいのです。いつまでも健康で元気で出来る限り長生きして欲しい、そう思うのです。

 もちろん、世話をしなければならないし、長期間家を空けることは出来ませんが、だからといって彼らをエサを食べなくてもいい、トイレもしない、ソファで爪を研がない、長期間家をあけても問題を起こさない・・・という生物に改造しようとは思いません。ましてや思い通りにならないからと言ってこの世からなくなって欲しいとも思いません。

 好きなものは好き。嫌いなものは嫌いなのです。それが現実。無理に捻じ曲げたり、自分が嫌いなものを好きだという人がいたとしてもその人が間違っているわけじゃない。広い視野を持って、地球レベル、宇宙レベル、いや神レベルで(笑)思い通りにならない人生を謳歌したいと思うのでした。 合掌