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 コラム 

2019/6/30 「解放」
   
 人生って思い通りにいかないものですよね~。
 
 その時「こうなったら幸せなのに・・・」「あれがあったら・・・」と思ってしまいがちです。何かを得たり、評価を得ることが幸せなのだと思ってしまう。

 特に女性は多くの「こうであるべき」というイメージを自分でも作ってしまっているから、社会に出て活躍するには常になんらかの罪悪感に苛まれている気がします。女性は結婚し子供を産み育てることが幸せというイメージだったり、料理が出来るほうが良いし、掃除も片付けも出来たほうが良い。自分磨きもある程度していたほうが良いし、やさしく気配りが出来るほうがよい。そんな良妻賢母的なイメージと比べて、自らを罰しマイナスに評価してしまいがちです。

 私も家事を手抜きしたりするとちゃんとできない自分が駄目な人間なのかな?と思ってしまいますし、料理も上手く出来ないとダメだと思っちゃいますし、整理整頓できない自分も嫌になりますし、子供がいないことも時々女性として何か欠けているように思うこともあります。

 でも、何かを得たり評価を得たり何かにならなければ幸せになれないと思うこと自体が間違いで、人はすでに幸せだと思えば幸せなのです。

 よく子供に今頑張って勉強すればいい大学に入れていい会社に入れるから・・・と、塾に通わせたり、遊ぶ時間を惜しんで勉強させたりすることが多いようですが、本当にそれで将来幸せになれるのでしょうか?

 今の自分がどうしたいか、どうするべきかちゃんと子供自身で考えて行動しなければダメだと思います。だって、社会に出たら理不尽なことだらけです。それにいい大学に入ったってもっと頭の良い人はいるし、いい会社に入ったって望むような部署にいけるとは限らないし、思うように成果を上げられなかったり、会社自体が倒産したり、人間関係で上手くいかなくなったり。そんなとき、自分で考える力を親から奪われている人は・・・もう、無理、これ以上頑張れないと、失敗することを恐れて家から出られず引きこもりになってしまうかもしれません。

 子供がいない私が言うのもなんですが、子供にやる前から危険だからとか上手く出来るはずがないと決め付けてやらせないよりも、子供が失敗して経験を積むことのほうが大切だと思うのです。親の役割は怪我をさせないということよりも、怪我をしたときに癒してあげることだったり、間違ったときに罰するのではなく受け入れてあげることであって、怪我をしそうなときに事前に回避させてあげることではないと思います。もちろん、育児放棄はいけないですけれど。遠くから見守って、子供を信じてあげることが大切だと思います。だって、どんなに危険を回避しようとしたとしても、死ぬときは死ぬのだし、家から一歩も出さないことは出来ないのだから。

 でも、多くの人は失敗よりも成功した方法を得ようとするし、一番近道で成功した方がより良い人生だと思いがちです。

 私も失敗したくなくて、恥ずかしい思いをしたくなくて、無理して表面を取り繕ってしまったこと沢山ありますし・・・今も時々失敗したくないと思ってしまって余計なストレスを抱えてしまうことがあります。

 そういう思い込み・・・ネガティブなものもポジティブなものも解放して手放していかなくちゃいけないって最近思います。こうなければならい、こうしてはいけない、そういう思い込みから自分で自分を評価し、落ち込んだり嫉妬したりして、多くの時間を費やしてしまいがちです。

 でも、そういう思いを持つのは自然なことなので、思わないようにしようとしても無理です。だから、そう思ってしまったときに「失敗したっていいし、人からどう思われてもいいんだ」って自分の心を解放していこう、と思うところです。

 どんな状況でも自分の心掛け次第なんだと思います。他人がどう思おうと本当は関係ないものなのです。人によって本当に評価は違いますし、イチイチ人の眼を気にして生きていたら本当に疲れてしまいますし、外に出るのが怖くなってしまいますよね。

 この先も人生何が起こるかわかりません。時には誰からも評価されていないような無力感に苛まれることもあります。そんなときも、出来ない自分を許してあげること。出来るまで続けること。

 失敗してもいい。人を傷つけてしまったとしても、認められなくてもいい。それでも幸せになれると思います。幸せは人が決めるものではないのだから。

 ここで、ココ・シャネルの言葉を

 「自分に対する否定的な心を捨てるのよ。
 自分自身ではなく、自分をおじけづかせる原因をつくった人たちを否定するの


  シャネルの服は好みではありませんが、いい言葉だと思います。自分が何か始めようとしたとき、自分を怖気づかせているのはなんなのか、しっかり見つめてみたとき、それは誰でもない漠然とした社会の眼だったりするのではないでしょうか?

 「こうあらねばらない」という思い込みは自分自身が生み出したものなのか?よくよく考えて生きていきたいと思っています。 合掌