Yoga & Relaxation Salon in Otaru ~ Candrika ~
















 コラム 

2009/11/8 「全ては自分の心の中にある」
 この間の座学で、ちらっとお話しさせて頂いたのですが、さらにそれから色々と自分なりに思索して、それをまとめるためにコラムに書きたいと思います。

 ヨガで、心や身体は本当の自分ではなく、本当の自分は「真我」だという教えがあります。ヨガの本などを見ると、本当の自分は心や身体ではないということを表現するのに、映画がよく使われています。映画を観てるのが本当の自分で、流れている映画というのが今の人生で、観ている自分が本当の自分なのに、映画の中の主人公が本当の自分だと勘違いしているところから苦しみは生まれるというように例えられています。

 ですから、「あ、これは映画なのか」と気付くことが真理を悟ることなのですが・・・。

 はじめて聞く方は「?」という感じですよね~。わたしも最近になってなんとなくわかりかけてきたという感じで、最初の頃は本を読んでも、いまいちピンと来ませんでした。映画なんだと気付いたら、全てが終わってしまうような虚無感というか、それじゃつまんないな・・・と思ったのです。心と身体が自分じゃないとするなら、じゃあ、今の人生って意味ないんだ、肉体を痛めつけても、汚れた心を持っても、構わないんじゃない?と思う人も出てくるでしょう。

 でも、もちろん今の人生もちゃんと意味を持っています。肉体や心が本当の自分ではないというのは、だから乱暴に扱ってもいいということではありません。肉体と心をつかって、人生の意味を理解するためには、その肉体と心を乱暴に扱っては駄目なのです。今まで肉体と心をちゃんと見つめず、その時その時、流されて生きてきた結果、本当の自分に気付くことが出来なくなっていたのですから。(現世に限らず、たくさんある前世においても・・・です)

 こうやって、何かを説明することで、真理から反対に遠ざかってしまうことって結構あります。表現しようとすればするほど、言葉の持つ意味に制限され、読む人の主観によっても制限されたり、まったく違う意味にとられたり・・・。

 本当は実感することが大切です。真理は実感しなければ、絶対にわからない推測の域を超えたものなのだそう。でも、私は表現しようとすること、形に残そうとすることも、それはそれで準備段階としては必要なのだと思うのです。

 今の人生がひとつの映画であるとして、映画館にいる限りは、今の映画が終わっても、次の映画が上映されつづけてしまいます。映画館が輪廻転生の輪と言えますね。そして前に観た映画の内容はまったく忘れてしまうので、自分がまた違う映画を観ているということに気付かないのです。

 映画を例にして例えるなら、ヨガの教えは監督みたいなもの。指導者が監督ではありません。無理にでも例えるなら現場スタッフとか?でしょうか。台本を変えることが出来るのは、観ている人。だから、台本が変われば、上映される内容も変わっていく。監督はなんとか、その台本の中でよりよい作品を作ろうとする。台本が良いモノであればあるほど、映画も良くなる。さらに監督が作者に働きかけて台本を修正することもあるでしょう。

 見ている本人に映画の影響があるかというと、そうではなくて、私も最近までちゃんと理解していなかったのだけれど、映画を観ている人は影響を受けません。だた、観ているだけなんです。じゃ、やっぱりどんな映画でもいいんじゃない?バイオレンスでもホラーでもなんでもいいってこと?と思うかもしれませんが、説明が難しいのだけれど、挑戦してみます。

 上映した映画の内容が悪ければ悪いほど、真理からは遠ざかり、観ている人と映画の間にフィルターというか、煙幕というか、隔たりが出来てしまうのだと思うのです。その作品を素直に観れなくなるというか・・・。その結果、映画自体もどんどん悪い方、悪い方へと流されてしまう。そして、観ている本人が台本を作っているということにも気付かないので、悪い想念を持てば持つほど、映画の内容は悪くなっていきますが、ヘタをすれば「なんだ、この映画、全然面白くない」と映画館を出ようとしてしまうこともあるでしょう。でも、映画館からは出られないので、別の映画のブースに行くことになりますが、どんどん質が落ちている映画しか観られない。

 映画を途中でやめてしまうこと、これが私は自殺だと思います。

 台本を作っているのは別の誰かだという思い込みをはずすのは、その映画の台本を書いているのは自分のエゴなんだと気付かせなくちゃいけない。だから、そこで、ヨガである監督は色々と主人公に演技指導して、真理はこれだよ・・・ということを主人公に演じさせようとしてるわけなのです。最初は良い映画を上映することで構いません。そうすることで自分のエゴが浄化されていって、だんだんと真理がなんなのかおぼろげに見えてきて、台本上になにもなくなった時に、「映画だったんだ!」と気付くんだと私は思うのです。

 だから、素晴らしい映画を上映することがが本来の目的ではないわけなのです。ここが難しいところですよね。「幸せに生きるために」とか「人生で成功するには」とか、今は様々な自己啓発の本が出ています。それは素晴らしい映画を描くためには有効ですが、真理は描いてません。

 もちろん、それをつきつめていくと、真理に到達するかもしれませんが。

 ・・・と、こんなことを書きながらも、私は悟っていないので、真理がどうこう言えないんですけれども 笑。

 まとめにはいりますと、ヨガはひとつのツールなので、ヨガを上達することが目的ではないということ。もちろん、有る程度まで、真理、真理って言われても、とうてい今の現実でどう解釈していけばいいのか、わかりずらいものです。だから、それまではヨガの上達を目指す。

 だんだんと自分の心の中のエゴが薄まっていって、前は「いや、そんなの出来ない」と思っていたことが、実は自分の思い込みだという事実が増えてきて、なんとなく「真理ってこういう方向なのかな?」ということがぼんやりと見えてくるまで、ヨガを上達することを目標としてもいいと思うのです。それが「人に良く思われたい」というエゴでなければ・・・ですが。

 なんか、難しくなってしまいましたでしょうか? 笑

 芸能人の裁判の模様が連日放送されています。そこで多くの視聴者の怒りの声や励ましの声が流されています。私自身も考えるところは多々ありますが、少なくとも、裁判を行っている彼らは、改善の余地が残されているのだと思うのです。やり直しの機会を与えられているのだと。

 一度脚光を浴びたことのある人が転落するのは、相当辛いことだと思うのですが、それだけの落差をつけないかぎり、間違った台本を書き続けていることに気づけなかったのだと私は思います。この試練を乗り越えない限り、来世はもっと大変なことになるのだろうなぁ・・・と、ヨガの教えを勉強すればいいのに、なんて思いながらテレビを見ている今日この頃・・・。

 人生の台本は自分次第なのですから、どんな試練があっても、大丈夫。私は最近そんな風に思えるようになってきました。ヨガの教えに感謝です。 合掌