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 コラム 

2010/3/8 「天国と地獄」
 白陰禅師という有名な江戸中期の禅僧がいらっしゃるのですが、その方の逸話は沢山あって、その中のひとつが最近読んだ本の中で紹介されていました。

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 あるとき、ひとりの武士が教えを請いに白陰禅師を訪ねてきました。
 「地獄はあるのでしょうか?天国はあるのでしょうか?あるとすれば、その入り口はどこでしょうか?」
 白陰禅師は尋ねました。
 「あなたは誰か?」
 「私は武士です。天皇にも尊敬されている武士です」
 禅師に「あなたは誰か」と尋ねられ名前を答えたら「一喝」されるところですが、白陰禅師は笑いながら答えました。
 「なに、武士じゃと?あなたは武士というより、乞食のように見えますがな」
 プライドの高い武士は教えを請いにきた目的を忘れ、逆上し、わけがわからなくなりました。顔が真っ赤になり、白陰禅師に刀をむけ、斬りかかろうとした、まさにその時です、白陰禅師は笑って言いました。
 「これが、地獄の門じゃよ。刀、怒り、エゴによって、地獄の門は開くのじゃよ」
 武士は物わかりの良い人でした。すぐ、自分の心の状況を理解し、刀を元の鞘におさめました。 白陰禅師はこれを見て言いました。
 「そらそら、今、天国の門が開いたのじゃ!!」

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 幼児虐待で幼い命を親の都合で断ち切ってしまう事件が後を絶ちませんが、そのニュースを見るたびに、その親の心の中には「地獄の門」が開いていたんだな・・・と思ってしまいます。自分の都合で、子供を物のように扱い、憎しみを子供に向けて、どんどん行為はエスカレートしていき、最後には大切な命を奪ってしまう。それが、親と子供の運命なのだとしたら・・・とても悲しいですよね。

 幼児虐待といじめには共通点が沢山あると思います。行為をする側には「憎しみ」とか「怒り」とか「エゴ」が存在するということ。最初は些細なことがキッカケだっただろうということ。心をコントロールする事が出来ず、自分のエゴの赴くままに相手を傷つけるということ。そして、エスカレートしていき、感覚が麻痺していくということ。

 そして、たぶん、一番憎んで怒りを感じているのは、そんな自分自身にたいしてなのだということ。そのことから目を背けたいから、別の対象へ意識を反らしているだけだと思うのです。そのことに気付かない限り、心の地獄の門は閉じることはないのだと思います。

 生活していれば、ムカっと来ることもあるし、恨んだり、妬んだり、憎んだりしてしまうときもあると思います。私ももちろん、前よりは減りましたが、たまにイラっとしたり、怒ってしまうこともあります。

 最近はそんな時「誰に対しての怒りなの?」と自問自答してみるようにしてみます。例えば誰かに裏切られたとします。その時、相手を憎んで、なんとか相手にそのことを知らしめてやろうと、自分が傷ついたのと同じ思いを味あわせたいと思いますよね?目には目を・・・と。

 でも、裏切られたのは何故なんでしょうか?本当に相手が悪いのでしょうか?よくよく考えてみると、そんな相手を信じた自分が悪いというところに行き着くのです。相手に何を期待し、自分はそこから何を得ようとしたのだろう?そこにはエゴや欲が存在していなかっただろうか?と考えてみるのです。

 あ、そうか・・・、きっとこのことをわからせるために、起きたことなのだ。そう思えたら、心の中の地獄の門は閉じるのです。

 私は「何故人を嫌いになるのかなぁ」って考えてみたのですが、自分がその人にとって、必要ではないと感じさせられた時に嫌いになるようです。そこに常に自分は必要とされる人間でありたいという私のエゴがあることに気付きました。

 自分が否定されているように感じるから、その人を「嫌い」だと思うことで、その事実から目を背けていただけだと気付きました。なので、気付いたら、その人に対しての「嫌悪感」はなくなりました。別に好きでも嫌いでもないただの知人のひとりになりました。

 常に心を天国にしていなければならない訳ではなくて、地獄の門が開いてしまった時に「あ、開いてる!」と気付けるかどうか。すぐにその門を閉められるかどうか。

 天国と地獄は心の中に存在するものだと、本当に思います。 合掌